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30歳でJ1デビュー。遅咲きのプロサッカー選手、古部健太から学ぶこと。

こんにちは!へいちゃん(@kohei55net)です!

今日は、古部健太(現在モンテディオ山形所属)という遅咲きのプロサッカー選手について書きました。ただ、実はこの記事は以前別のブログで書いていたもので、そのブログを閉鎖したので、今回こちらに移しました。

2016年に書いたもので、時間も経ったので少し加筆・修正を加えています。

長崎には、高杉という遅咲きの大ベテラン選手がいます。

他にも遅咲きの選手は沢山いると思いますが、その中でも27歳でJ2でプロデビューをして、30歳にしてようやくJ1まで這い上がってきたこの遅咲きのサッカー選手から学ぶべきことがたくさんあるのではないか、と感じています。

この記事が、どなたかの役に立つことになれば嬉しい限りです。では、ご覧ください。

サッカーから随分と離れてしまい・・・

2016年6月、5年ぶりにJ1を舞台に戦うアビスパ福岡は低空飛行を続けていました。16試合を終えて、2勝2敗12敗。勝点わずか8の最下位。

6月25日、J1ファーストステージの最終戦。福岡は久しぶりの優勝を意気込む鹿島の本拠地カシマサッカースタジアムに乗り込みました。

そこで福岡のスタメンに、見慣れない名前を目にします。

「古部健太」

私は諸事情で、おそらく10年近くサッカーから離れていました。海外サッカーはおろか、Jリーグもほとんど見ていなかったので、「古部健太」という選手の存在を知らなかったのです。

サッカーを10年近く見ていなくても、何となく知っている選手は知っていますが、こと古部健太という選手は全く情報がありませんでした。

「どこから来た選手なんだろうか?」

少し経歴を調べてみると、なかなか興味深いものがあることがわかりました。

小学校と中学生では、あのレスターの岡崎慎司と同じだったこと。高校サッカー界では誰も知らないであろう宝塚高校という普通の県立高校の出身だったこと。その後は、立命館大学に進学したこと。

そして、彼のプロへの道は、大学での活躍にあることわかりました。

当初はレベルの違いに戸惑いがあったようですが、大学2年からレギュラーを掴み、そこで頭角を現します。大学3年生の時に総理大臣杯で全国制覇を達成。その年の2006年、全国的には全く無名の存在ながら、北京オリンピックを目指すU-21にいきなり招集され、一時脚光を浴びることになります。

当時、北京五輪を目指すチームには、家長とか本田とか平山とか錚々たるメンバーがいた中で、大学生の招集は注目を浴びたと思います。

大学での活躍によって、プロへの道が開けてきます。

プロの世界に跳び込むも厳しい世界に直面する

最終的に、オリンピックメンバーには選ばれることはなかったものの、2008年に横浜Fマリノスに入団。晴れてプロの世界の扉を叩くことになります。

普通の県立高校の出身が、J1の名門でプロになる。これだけでもシンデレラストーリーです。

しかし、プロは活躍してなんぼの世界。彼を待ち受けていたのは、大学での華々しい活躍とは程遠い、厳しすぎる現実でした。

予想以上にプロの壁は厚く、在籍した2008~2009年の2年の間で、1度の出場機会も得ることが出来なかったんですね。

そこで、彼は別のチームに出場機会を求めます。

プロ2年目の2009年4月、JFLよりもさらに下のカテゴリー、地域リーグのチームに期限付き移籍することになりました。

プロの選手が、地域リーグですよ・・・。

結局、1度も公式戦に出場できず、プロの世界からすると、全く日の当たらない地域リーグに足を踏み入れます。

いや、正確に言うと、踏み入れたわけではなく、簡単な話、「プロでは要らないよ」と言われてしまったようなものです。

J2でもなく、ましてJFLでもなく、さらにその下の北信越フットボールリーグ1部。

そのクラブは、当時JFL昇格を目指していたツエーゲン金沢でした。

地域リーグからの再出発

古部選手は、本当の意味でのプロへの挑戦を、この地域リーグから始めることになります。

レンタル移籍中の2009年の途中からツエーゲン金沢でプレー。同じ年の12月には、JFL昇格をかけて、当時JFL17位のFC刈谷と入れ替え戦で対戦しました。

ホーム&アウェーの合計2試合で行われた入れ替え戦。
第1戦で、古部選手のゴールで1-0と勝利。2戦目は引き分けに持ち込みました。

「ツエーゲン金沢をJFLに昇格させるまで横浜に戻らない」とレンタル延長を自ら申し出た男は、見事に金沢をJFLへと導きます。

きっと横浜Fマリノスで出場できず失った自信を、地域リーグやJFLに居場所を見つけることで、新しい、そして少しだけ形の違う自信を少しずつ手にしようとしていた気がします。

金沢をJFLに導いたものの、結局横浜Fマリノスからは戦力外通告を受けることになります。そして、マリノスの選手としては、1度もピッチに立つことなく横浜をあとにします。

そのまま2010年、金沢に完全移籍をしてJFLでプレーをします。

当時は、現在甲府の監督を務める上野監督の下、2011年には一時首位になるなど、チームとしては活躍したんですが、古部選手は金沢での選手生活にピリオドを打つことにします。

彼が、26歳の時です。やっぱり上を目指したかったんですね。

古部選手は、ご自身のブログでこう書いてました。

まいどです。

この度ツエーゲン金沢を退団することになりました。

理由はいくつかありますが一番は、来季の準加盟が間に合わないことです。
今年33試合を終えて、4位以内に入らなかった自分たちが悪いんですけど、何も残らないむなしさみたいなものを感じました。

2年前にキャプテン諸江に
「金沢盛り上げよーぜ!」
って言われて頑張ったけど、力不足でした。

すみません。。

そして自分のプレースタイルを考えた時に、脚が動いてる今のうちに上へチャレンジしたいという気持ちの方が強くなりました

もちろんスピードを維持できるようにトレーニングやケアは徹底してやりますけどねグッド!

サッカーは続けたいですが、まだどこでやるかは決まってません。

できれば国内がいいですが、どうなるか分かりません。

もしかしたらチームがなくてプロサッカー選手ではなくなるかもしれません。

不安は大きいです。でもわくわくもしています。

モヤモヤしながら来年も続けるよりは、どーんと踏み出してみようと思います!

金沢には約3年間住みましたが、魚を中心にメシがうまい、程よく都会、程よく田舎、支えてくれる人もいっぱい、Jrユースの子ども達は可愛い、チームメートはサッカー上手いしおもろい、、、冬の天気以外は大好きです!笑

また遊びに来たいです!

長くなりましたが、これからもツエーゲン金沢とよければ古部健太の応援をよろしくお願いしますにひひ

新しいチームが決まったらまたブログでお知らせします。

それまでちょっと休憩します。

ほなまた~パー

(本人ブログより引用)

金沢を退団した古部選手は、当時同じJFLだったV・ファーレン長崎のセレクションを受けることになります。

もちろん、オファーという形ではなく、入団テストです。

落ちたらアウト。またどこかチームを探さないといけない。

しかし、古部選手は挑戦する道を選びます。おそらくラストチャンスという気持ちだったのではないか、と推測します。

V・ファーレン長崎の公式サイトによると、Jリーグへ戻りたい気持ちと年齢を考えた結果、同じくJFLでJ2入りを目指していた長崎のセレクションを受けたそうです。

セレクションに落ちたら「東南アジアでもいこうか」と考えていたとのことでしたが、持ち前の運動量とスピードで見事合格を勝ち取ります。

2012年長崎に加入した年には、チームもJFLでの優勝を勝ち取り、ついにJ2に昇格。
そして、翌年の2013年、ついに27歳にしてプロのサッカー選手としてデビューを果たしました。3月3日の開幕戦、岡山との試合でした。

Vファーレン長崎での活躍を糧に、遅咲きのサッカー選手としてJ1の舞台へ

2013年から2015年までの3年間、J2で100試合以上、V・ファーレン長崎の主力としてプレーしました。

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その3年の間で2度のプレーオフに進出したものの、残念ながらJ1へ昇格は叶わず。

そんな中で、古部選手に、思いがけないオファーが届きます。

2015年にJ1昇格を決めたアビスパ福岡からのオファーでした。

その時の思いをブログでこう綴っていました。

まいどです。

リリースがあった通りこの度アビスパ福岡へ移籍することになりました。

手術のためプレーオフ後の練習やファン感にも参加できずに、皆さまに直接お礼も挨拶もできなくて申し訳なく思っています。

今回の話は本当に突然で自分でもビックリなのですが、この話をいただいた時に

7年前に何もできなかったJ1にもう一度チャレンジできる!

新しい環境にとびこんで、まだ成長したい!

という思いになりました。

もっとレベルアップしないと通用しないでしょうから、福岡でもがき続けたいと思います!

(本人のブログより)

そして、シーズン終了後に、アビスパ福岡に完全移籍しました。

何もできずプロの世界を追われた22歳の青年は、地域リーグ、JFL、J2と1段ずつ階段を登るようにコツコツと実績を積み上げ、ついにJ1の舞台に戻ってきました。

いや~、なんということでしょう!!本当にすごいことです。

そして、6/25のJ1ファーストステージ第17節、鹿島アントラーズ戦。

井原監督は、出場停止の亀川選手(元リオ五輪代表)に代わって、今シーズン1度もリーグ戦に出場していなかった古部選手を、スタメンに抜擢してきました。

7年の月日をかけて、地域リーグからJ1に這い上がってきた30歳のオールドルーキーが、ついにJ1デビューを果たした瞬間でした。

この試合、残念ながらアビスパは0-2で負けてしまいましたが、古部選手は、90分フル出場しました。

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1回完全に裏を取られるプレーがあったものの、終始落ち着いてプレー。後半左サイドで縦に勝負してクロスを送るプレーは、アグレッシブでとても素晴らしいプレーでした。

「オレは地域リーグという日の当たらないところから1歩ずつ前を向いてやってきた。J2でも100を超える試合やJ1昇格をかけた厳しいプレーオフも経験してきた。相手が鹿島であろうと、自分のプレーをやってやる」

そんな力強い言葉が聞こえてくるかのような、堂々としたプレーを見せてくれました。

こちらは、twitterから引用した当時の古部選手のプレー。

サッカーには、人生そのものが詰まっている

わたしは、この試合を見ながら、サッカーというのは本当に人生そのものだな、という思いを抱かずにはいられない気分になっていました。

ピッチを見渡せば、十人十色の選手たちが一人ひとり違う輝きを見せてくれました。

一度は夢破れながらも這い上がってきた古部選手、若干17歳でプロ契約を交わし溢れんばかりの才能を魅せる18歳の邦本選手、そして、強豪チームからのオファーを断りアビスパ一筋でプレーする城後選手。(※邦本選手は、契約条項違反により、その後退団。それもまた人生の一部。)

一方で、鹿島には、在籍16年でこの試合を最後にサガン鳥栖に移籍する青木選手、未だに主力として鹿島の伝統を体現する37歳(当時)の小笠原選手、そして、背番号10を背負い虎視眈々と世界を目指す柴崎選手。

そんな中で、古部選手から、「人にはそれぞれ輝くタイミングと時期というものがある」ということを教えられた気がします。

J1で試合に出場出来なかった当時の古部選手には、少なからず足りないものがあり、様々なステージでその足りないものを手にしながら、7年かけてJ1でプレーできる選手にまで成長してきました。

眩いばかりの世界であってもそうでなくても、いつ輝くかわからないそのチャンスに備えて、常に準備をしておくこと。

7年という時間はかかってしまったけれども、1日1日を大切にしながらもその時々で全力でプレーしてきたからこそ、今があるということ。

人は輝く時期が、いつになるのかは誰にもわからないのです。

いま輝いている人にスポットライトの光が照らし続けられる保証もなければ、全く光の当たらない時を過ごしている人の今後が、同じように輝けない理由も見当たらない。

だからこそ、諦めずにその瞬間瞬間を過ごしていくことが、大切なのではないだろうか。

自分自身、昨日よりも少しでも前に進みたいと思い日々過ごす中で、古部選手には、さらに背中を押されるような、そんな勇気を与えてもらった試合になりました。

「思いは達する」

こうして世界は広がっていくんだということを示してくれた、アスリートの素晴らしさに触れることができました。

彼の物語はもう少し続きます。

元横浜Fマリノスの選手として

6月25日の鹿島アントラーズ戦でJ1デビューを果たした古部選手は、続く7月2日のセカンドステージ第1節の浦和レッズ戦にも続いて先発で出場。

また、7月9日に行われた第2節の横浜Fマリノス戦。
アウェー横浜の地に、敵チームとして、「凱旋」を果たしました。3戦連続のスタメンでした。7年前に古部選手が、横浜にいたことを知っているサポーターの方がどれくらいいたのかは知る由もありません。

しかし、「横浜Fマリノスの選手」としてJ1のピッチを踏めなかった男が、7年後、「横浜Fマリノスの元選手」として、横浜に戻ってきた事実は、永遠に変わることはないでしょう。

マリノスのサポーターの愛情のこもったツイートは、とても印象的でした。

再び長崎へ。そして、初めてのJ1昇格と。

2016年シーズン、アビスパ福岡はJ2に降格。古部選手にとって、J1でのプレーはわずか1年で終わりを告げることになります。

結局、福岡ではJ1デビューを果たしたものの、出場できた試合は数えるほどでした。

2年目も福岡でプレーするだろうと思っていた矢先、まさかの長崎から復帰オファーが舞い込みます。

そして、覚悟をもって長崎に「復帰」した古部選手は、2017年シーズン、再び長崎の選手としてJ1昇格を目指すことになります。

元々JFL時代も含めると、4年間長崎の主力としてプレーしていたので、当然フロントとしは、「主戦力」と見込んでの復帰オファーだったと思います。

しかし、彼を待っていたのは、予想を超えたライバルたちとの激しいポジション争いでした。

立ち塞がったのは、松本山雅でJ1も経験のある飯尾と、中央大学から加入した変則ドリブラーの翁長でした。この2人にポジションをガッチリと掴まれてしまい、2人を超える信頼を高木監督から手にすることが出来ませんでした。

結果、スタメンはわずかに4試合。6月3日の湘南戦での途中出場が、まさか今シーズン最後のプレーになってしまうとは想像出来なかったでしょう。2年前の2015年、主力として41試合の試合に出場した時と同じような姿を見ることは出来ませんでした。

この年の春先、経営難が明るみになりクラブは揺れに揺れたシーズンでしたが、途中でジャパネットたかたの子会社化によって難を逃れたクラブは、見事J1初昇格を果たすことになりました。

古部選手にポジション争いで勝った飯尾選手と翁長選手は、J1初昇格に大きく貢献し、2018年シーズンもJ1を舞台に堂々たるプレーで長崎らしさを発揮してくれています。

一方で、結果を残せなかった選手は、ピッチを去らなければならないのがプロの定め。

古部選手は、シーズン終了後、再び「戦力外通告」を受けることになります。横浜Fマリノスに続いて、2度目の宣告でした。

山形での新たな冒険の始まり

失意の中で、戦力外となった古部選手に声をかけてくれたのは、モンテディオ山形でした。

水戸との開幕戦を控えた2月25日のわずか1週間前のことでした。その1ヶ月後の3月25日の東京ヴェルディ戦。古部選手は、山形で初めてとなるスタメン出場を果たし、90分間プレーしました。

続く、山口戦でもスタメン出場。少しずつ出場時間を増やしつつあります。

思えば、横浜Fマリノスを追われてから10年の月日が経っていました。金沢での再起、長崎での挑戦、福岡での飛躍、そして長崎での苦悩。

古部選手にとって5つ目となるクラブで、どんなフットボール人生を見せてくれるのか。

これからもこの遅咲きフットボーラーから目が離せません。

まとめ

私はなぜだか遅咲きの選手に、惹かれてしまいます。

長崎の高杉選手や前田選手も同様で、それが本当に苦労なのかどうかは本人に聞いてみないとわかりませんが、たぶんプロの世界は生まれ持った才能だけで活躍できる世界ではないからこそ、ある意味で実力世界の中で、遅れてやってくる輝きの根本に何があるのか、が気になってしまうんだと思います。

古部選手以外にも遅咲きフットボーラーは、たくさんいます。

また別の機会に書いてみたいと思っています。

長文になってしまいました。最後まで読んでいただいた方には感謝申し上げます。

ABOUT ME
kohei55
「サッカーだけじゃない!」ブログ管理者。サッカー、習慣化、長期投資、コミュニケーションなどのテーマで幅広く書いています。